安部公房のまえに・・・映画について
今思いついたので、忘れる前に書いてみます。
私達の時代、昭和50年代の娯楽といえば、テレビもない時代の事、漫画か映画しか在りませんでした。我が家は貧乏でしたが、周りも煮たりよったり、どんぐりの背比べ、
其れゆえ変に劣等感を覚えたり,僻んだりすることもなく、当たり前に近所付き合い、友達付き合い出来ていました。
映画自体年に何回ぐらいしか観る事が出来ませんでした。
だから友達同士漫画を廻し読み、するぐらいが精々の楽しみでした。
殆ど忘れましたが、いがらし君、とか、赤胴鈴之助とか、柔道物とか、剣道物とかが人気あったと思います。それに根性もの、題名やストーリーなど殆ど思いだせない。
映画については、中学時代が最盛期だった。とゆうのも、タダ映画の見放題だったのです。新聞配達のアルバイトをしていたからです。
新聞集配所では、毎日のようにチラシを新聞本体に挟んでいきます。
今と違って映画のチラシも、新聞と一緒に配達するのが当り前でした。
だからチラシを入れる前日に、映画館にそのチラシを映画館に取りに行く仕事が、配達員の余禄。当時は今と違って、小さな映画館が、乱立していました。東映、大映、松竹、日活、東宝まだあったかな?それに洋画専門の映画館、だから現代の五月の連休のゴールデンウイイークは、映画界が作り出した言葉。
私達がチラシを取りに行く映画館は、日活と大映の専門館だった筈、当時映画館は殆どが二本立て、ないし三本立てが当り前、しかも入れ替えなしが当り前、何なら朝から晩までいても文句言われなかった。頭が痛くなるが。
石原裕次郎、赤木圭一郎、小林旭、宍戸錠、吉永小百合、そうそうたる役者、俳優たち
いまでも活躍する人もいれば故人もいる、私の年齢、今では個人のほうが、多いい。
本来、チラシを取りに行くのは順番だったが、夜遅くなるので嫌がる人が殆ど、私が引き受けた。だから二週間に一度は、映画館に行っていたほど、しかもタダで。
映画の話はまたの機会に。
ちなみに私が見た初めての洋画、外国映画は監督が確かヒッチコックだったと思うのだがはっきりしない、「北北西に進路を取れ」だったと思う。いまでもポスターの絵柄覚えている。主人公の頭上をたしかドイツだったか?飛行機が飛んでいたと思った、間違っていたらごめん。強烈な印象は忘れていない。以来日本映画は卒業。
安部公房は次回に・・・